投稿者 /Ka++ 日時 2005 年 3 月 08 日 00:31:22:
回答先: たまには(6)テレパシー部屋にも書いて見ようかな 投稿者 スターダスト 日時 2005 年 3 月 07 日 03:22:20:
|> 不安や恐怖に満ちた印象をもしも受けているとするならば、断固としてそれらの印象を切り捨てて無視すべきです。
|> 多くは私たち自らの細胞が勝手に作り出した恐怖の想念ですから切り捨てても構いません。
万物がひとつであるならば、不安や恐怖はその一部として受け入れるべきではないでしょうか。
私は精神的なバランスが崩れているときは手がふるえたり、しびれたりします。手を使う作業をしていることに関係しているでしょうし、利き腕でない方であることも何らか意味があるでしょう。抑圧の集積が形になって出てくるのでしょう。
訓練の方法は一旦リラックスして休ませて、その後は必要な作業を続けます。酷使しているというよりも、身体の統合者としての意志を伝えるために意図的にそうします。落ち着くまでの休みは与える、しかし、従ってもらおう、と。何度も訓練してさほど気にならなくなりました。また、時間も短くなっています。
身体の一部が身勝手な想念を造りだし、混乱しているとしても、それを無視して良いのか。無視されて受け止める場所がないと、不安や恐怖が増していくだけではないかとも思うのです。不安や恐怖を受け止めることも慈愛なのかもしれません。
多くの不安や恐怖を無視して、生命の賛歌を歌い上げようとする人達をどこか信じられないのは、こんな想いがあるからなのかも知れません。