投稿者 スターダスト 日時 2002 年 3 月 24 日 16:56:48:
回答先: ぜひ見たい番組 投稿者 星はなんでも知っている 日時 2002 年 3 月 23 日 19:17:04:
|> 今週の日曜日、知ってるつもりの最終回スペシャル
|> として、仏陀の放送が有りました。
私も最初から最後まで
視聴しておりました。
|> 人間釈迦の苦悩と悟り、現在の私達の心を取り巻く
|> 状況は時代を経ても、あまり変わっていない様です。
そのように思います。
ゴータマ・ブッダを取り巻く
あの時代とあの地域においても
私たちの今の時代とよく似ているような
気がします。
古典的な僧侶階級による
形骸化した祭祀主義が
崩壊しつつあり、
カースト制度が一時的に弱体化しており、
およそ200を超える
新しい思想家達の主張が
勃興し、
農業が衰えつつも
汎地域的な商業が興隆し、
商圏やルートの利権あらそいで
紛争、戦争が多発しておりました。
|> 番組の内では、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたと
|> ありましたが、釈迦が悟りを得た状況については
|> 触れていませんでした。むろん釈迦本人にしか分かる
|> はずも有りませんが。
もっとも興味あるところですね。
個人的には、ゴータマ・ブッダの
実践的な手法は
きわめて価値が高いと思っております。
ただし、
日本仏教(北伝の大乗仏教)は
しかも、神話的要素が付け加えられ、
哲理においても極めて難解で、
どういうわけか
古代のインドや中国の諸思想や
いかがわしい呪法、儀式、概念が
まざってしまっていたりします。
日本仏教は初心者の理解を超えるような
ところがあります。
かといって、念仏や唱題のみで
救われるといった、
一種の「反復信念?」による
救済論もまた、個人的には、
ですが
遠回りのような気がします。
もしも、難解な哲理や
単純な想念反復や
密教的な儀式、
だどで、人が救済できるものならば
ゴータマ・ブッダは
そのことを明示したでしょうけれども
そのようなことは、なかったと
思われます。
さて、
ゴータマ・ブッダが教え諭した
実践論は、極めてシンプルです。
後に、弟子たちが数百年かけて
体系にしたもののなかで
伝えられるものとして
「八正道」という実践論が
あります。
もとから「八」だったかどうかは
不明との学術研究もあります。
その真髄は
「慈悲の念に従った想念を持ち
慈悲の念に従った行動をしなさい」
ということになります。
これが、ブッダが普遍的に
伝えたかった、真理にいたる道のようです。
話を元に戻します。
ゴータマ・ブッダが菩提樹の下で
どのように悟りにいたったのか
すごく興味深いのですが
直前のキーワードは
「中道」だと、番組の中では
紹介されていました。
楽器ですが、
「弦を張りすぎれば、弦は切れる、
弦をゆすませれば、良い音は出ない」
それを見ながら、ふと、思ったのですが、
死にいたるほどの孤独な「苦行」を
続けてきた、ゴータマ・ブッダが
苦行では何も得られないと感じて
フラフラになりながら苦行地を
離れた道すがらに出会った
村の娘、スジャータに
乳を与えられたという伝承、
ここにも大きなキーワードが
隠されているような気がいたします。
番組の中でも触れられていましたが
当時、苦行中の沙門に
周りから、おせっかい的に
便宜を与えることは禁忌でありました。
例えば、断食中に、食事を与えるなどは
妨害そのものである、と考えられていたようです。
村娘スジャータが、
仮にその禁忌を
知っていたにせよ、
知らなかったにせよ、
初めて出会った見知らぬ
得たいの知れない沙門、
弱っている沙門に
声をかけ、いたわり、
慈愛の念によって
乳を与えたこと、
この行動と想念は
ゴータマ・ブッダにとって
大きなキーワードと
なったのではないでしょうか。
ゴータマ・ブッダほどの
鋭敏な知覚力をもった人間に
スジャータの素朴な愛の想念が
どのように響き渡ったことでしょうか。
中道と慈愛、
ゴータマ・ブッダが悟りに至る
直前にこのような出来事が
あったことは、とても
興味深いと思われます。
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さて、八正道なのですが
さきほども申し上げた通り
「慈悲の念に従った想念を持ち
慈悲の念に従った行動をしなさい」
ということにつきます。
私、スターダストは
この実践論は
アダムスキーの提唱の想念観察と
極めて密接な関係があると
思っております。
真理に至る道として、
もっとも近い道なのではないでしょうか?
ブッダの弟子の一人が
「塵、芥を清め払えたまえ」と
念じながら、すべての人の履物を
掃除し続けたことにより
阿羅漢にいたっという伝承も
番組に取り上げられました。
センスマインドのなかの
「塵、芥を清め払う」
ことこそが
肝要だと思われてなりません。
汚れを取り払ったときに
真理の光は輝きを増すのでしょう。
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とはいえ、塵、芥、だらけな
自分なのですけれども
少しでも多くの時間をさいて
想念観察をしていきたいです。