投稿者 スターダスト 日時 2006 年 3 月 29 日 23:01:28:
回答先: 想念観察−アレンの場合 投稿者 スターダスト 日時 2006 年 3 月 29 日 22:46:27:
イエスが「悔い改めよ」と言ったときに、原語レベルで調べるとそれは「心を超えよ」という意味であったかもしれないと気がつきました。まだ調査中ですが。
「心を超えよ」とは、センスマインドだけですませる生活から脱却してソウルマインドとセンスマインドとを融合させる人生を始めることです。
「回心」という言葉もありますが、某カトリックの神父さんによれば「心を神に向ける」という意味だそうで。どちらも同じことですね。
「祈り」って、今生きている一瞬一瞬の心を「神に向ける」ことだと思います。
心を定期的に休めるために一種の瞑想や瞑黙、座禅、ヨーガなどは確かに有効で勉強になるでしょうが、私たち凡夫はむしろ、日常生活の一瞬一瞬において、創造主のエネルギーに従った、慈愛の放射に従った生き方をすることが求められると思います。それが祈りある生活ではないでしょうか。
お金ばかりかけて立派な教会で「神の祝福を求めて」「祈りながら」「敵をやっつけるために出陣する」ような生き方は、あまり好ましくないことでしょう。
祈りとは形式ではないと思います。継続的な生き方です。
そうした生き方をするために朝などに一定の時間を設けて心を鎮めて内奥からのささやきに耳を傾けることは良い練習になりますが、本当に力がつくのは、実生活における宇宙の意識に従った思念や行動であることでしょう。
愛に満ちた生活をし、創造主とともにあれば、良き想念が湧き上がってくるかと思います。それがテレパシーだと思います。
※私もまだまだですが、継続的に頑張って生きたいと思います。
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