自己との直面 FACE TO FACE WITH SELF

ジョージ・アダムスキー

 

 自己制御の小道は、旅するのに容易な小道ではありません。人が「私の意志ではなくて、 "汝の" 意志がなされますように…」と喜んで言う前に、個人的な苦悶の暗黒の夜をしばしば何時間も、何日も、何か月も過ごしながら、何度も人は、死すべき自己と奮闘しなければなりません。そして、その時がやって来る前に、死すべき自己は何回、「ああ、私の "父" よ、この杯を、私から取り上げて下さい! 」と叫ぶことでしょう。

 

 利己的な人生 "私の意志" の人生を生きることは、容易ですが、しかし、自分自身を "創造主の意志" に対して解放することは、たいへん難しいのです。変質の過程において、より小さい自己が通過しなければならない奮闘は、しばしば最大の激しい苦痛を生み出します。柔和さ(従順さ)と服従が達成されることができる前に、多くの長い時間が費やされるのです。

 

 

 毎年そして絶え間なく、普遍的な表現のための非個人的な経路になろうと努めている人は、自分の強さ、自分の理解と信仰(信念)を、証明したり、反証したりする胸の張り裂けるような試練を通過します。人は "真理の鏡" の中の自分自身のイメージを、喜んで眺めなければなりません。ときどき、その光景が非常に嫌悪を感じさせるので、人は退いて、人格を最大に啓示するものから、自分の顔をそむけます。そして、彼は、自分の生命の表現の中の、実際の神性の欠如によって、ぼうっとなり、茫然自失の状態になります。自分自身の死すべき魂に直面するとき、彼は自分を引きずって歩くことがしばしばできない絶望の沼地の中へと投げこまれます。そして個人的な後悔と自己非難の流砂の中へと引きずり込まれます。唯一、ハートが純粋で、目的が誠実である人だけが、そのような啓示にしりごみしないで、自分自身の行動と想念に直面できるのです。こうして人が遠くにまで登った時、彼は信仰の中での自分自身の再確立と愛の中での自分自身の浄化の必要性に直面させられるのです。この鏡の中に、人が進展の小道の中においてつぐなわなければならない罰、報い(ペナルティー)ある誤って導かれた行為の反応の光景がしばしば出現します。他の死すべき人間たちの取るに足らない弱さよりも自分が上にあると信じている人は、啓示の鏡の中に、本当の自分自身の映像を、しばしば示されるでしょう。利己的な欲望のもとで奮闘し、意志の力によって結果を形作ることを捜し求め、人間の目の中に彼が偉大に見えるかもしれない知恵を捜し求め、自分が同胞たちよりも上にあがりたいがために権力を捜し求めている、死すべき人間たち。

 

 自分の内部にいつも見いだしているつまらぬ短気なフィーリングが、死すべきプライドと野心の結果であることを、彼は知らされるかもしれません。これらのことの全ては、自己制御(熟達)の小道を歩き始めた人に贈られるのです。

 

 これらの事の全てを彼は眺めて、謙虚なハートで承認しなければならないのです。

 

 

 人が "真理の鏡" の中をのぞき込んで、自分の個人的な自己の活動を眺めて、それの激しい不快感(強い反感)によって参ってしまわない時、彼はその時、自分の行為のすべてが重荷を負わされる場所まで、どんどん進むかもしれません。そして、ここで自分が当然与えられるべきものに応じて、過去の活動のつり合いを保たせる(バランスさせる)であろうそのエッセンス(不可欠な要素)だけが入っている、浄化の杯を贈られます。

 

 各人にとって、その一飲みの量は異なります。ある人たちにとって、その杯は非常に苦いのです。そして多くの人たちは、それを共にすることを自分自身に強要する意志を持つことなしに、それを投げてしまうでしょう。そのような人たちに対しては、細い小道が開かれていて、その小道は鉄のドアーを通らせながら導くのです。そこから、世俗的な物事の半分暗い部屋の中へと導かれて、その場所で彼らがまだ学んでいないそれらの物事を、再び体験するかもしれません。

 

 

 "真理の鏡" の中に自分の映像を眺めた後、自分がずっと前にそのエッセンスを入れておいた杯を共にするために、尽きない勇気と愛の心と不滅の信念(信仰)とを持って、前進する人たちもいます。そのような人たちには、別のドアー、純金の美しい門が出現します。この戸口の前に彼らは立つことを許されます。そして、かなたの美しさの意識的な知識の閃光を共にすることを許されます。しかしある人たちにとって、自分が飲んだ苦い杯は、自分の死すべき魂に、薄く色を付けるでしょう。そして自分の内部から、反乱、怒り、憎しみ、不正の感覚、そして他の多数の破壊の要素の煙が立ち上るでしょう。もし意識的な死すべき心が弱いのであれば、その心は、これらの全てに対する奴隷となるでしょう。そして騒ぎは、その心を通じてはびこるでしょう。そのようなケースではその個人は、体験の部屋の中へと引っ張って行かれます。その場所で彼は、未来の試練の為の強さを築きあげようと、再び努力するかもしれません。

 

 

 金の扉の前に立つ少数の人たちは、自らの清浄さによって杯の中味を克服します。それゆえ、自分の唇には苦かったものを、甘いものにし、自分の内奥の自己に対して活力を与えるエッセンスにするのです。別な人にとっては毒の杯であったであろうその一服は、そのような魂にとって再生の浄化させる万能薬になります。

 

 けれども人がそのような遠くにまでやって来たならば、より大きな試練があるのです。彼は世俗的な人間たちの死すべき苦痛、利己主義、憎しみ、貧欲を見なければなりませんが、けれども "神" それ自身と同じくらい真実で、自由で、純粋なハートと共に、"普遍的な神聖" を、すばやく自分のヴィジョン(視界、洞察力)に保たなければなりません。もしそのような人が、器を汚れなく純潔なままにでき、自己を空にしたままにでき、そして意識の活動の中であらゆる誠実さと共に「私の意志ではなく、"汝の意志"が為されますように…」と公言できるならば、その時ドアーは確かに、内部にわずかに動くのです。そして一つの光が、その未知の旅人に輝くのです。

 

 捜し求めている人の神殿(肉体)を貫きながら注いでいるその光は確かに、だんだん強くなるのです。そして今やその試練は、なお一層大きいのです。というのは、この増大した力と共に、より大いなる意志、知識、より広大な力がやって来るからです。これは本当に、この地点に達するまでの最高の試練です。というのは、もし利己主義のほんの小さな一つの "しみ" でもあるならば、それは現れ出て、個人的な欲求としての光を主張するであろうからです。そしてそのような想念と共にそのドアーは、より大きく動かないからです。
そして、その学習をする人は、死すべきプライドを通じて彼が再び、謙虚さに到達して、その光を非個人的に使うことを学ぶまで、その敷居の上に留まらねばならないからです。

 

 

 ただときおり、十分な理解の中へと入れるかもしれない状態にまで上る人がいます。そのような人は多くの肉体化(肉体を持つ生涯を送ること)を通じて、自分の死すべき魂の熟達に到達するために、活動のたゆまぬ粘り強さと共に、自己の欲求の迷路の中を苦労しながら進むのです。

 

 

 私の言葉に耳を傾けてきたあなた方の多くは、意識的な啓示の鏡の中に、自分自身をとても知覚するための特権を与えられてきました。おそらくあなたは、自分自身の弱さに愕然として、がっかりしたかもしれませんが、意気消沈してはいけません。なぜなら、その光へと向かうあなたの進歩は遅いからです。

 

 あなたの未来の成長という花が本当の、しっかりした茎に支えられるために、あなたが今、自分自身を確実に根付かせていることを記憶していなさい。あなたは、大地の暗黒の中に横たわる小さな種に似ています。それに似ているのです。満開の花になるために短気であってはいけません。あなたの意識の天空の中の高い栄光のその炎に向かって、あまりにも大いに努力するのではなく、絶え間のない前方への活動の中で成長しなさい。あなたを支えるであろう強い根を形作るために、先ず努力しなさい。信念、忍耐、寛容、愛、同情、これらはあなたの永遠の生命の増大する美しさを、もっと後に支えるであろう根なのです。

 

 

 死すべき利己的な想念類は、一つずつあなたの意識から消去されなければなりません。各々の想念と共にその苦痛は激しいのです。なぜならば、あなたがそれをそのようにするからです。けれども、あなたの心は、各々の十字架に付けられた自己の閃光(スパーク)と共に、自由と再生の新しい誕生を共にするのです。

 

 私はあなたに、「自己制御の小道は容易ではありません」と言いましたが、しかし、それは言葉では言い表せないほど美しいのです。その人の内部で起こる十字架のはりつけが、復活の面を生み出さないことはないのです。

 

 それゆえ絶え間のない活動の中で前進しなさい。そして、もしあなたが "普遍的な理解" という金の門を通過するつもりがあるならば、あなたは、勇気、中でも "愛" を持たなければならないことを記憶していなさい。