意識の声 No.70 より

1996年5月号

 

「自然治癒力を考える会」で講演

 

 去る四月三日、医師団の研究会である「自然治癒を考える会」から私(久保田)に依頼があった件で、当日、千代田区の郵政省横のニューダイヤモンドビルの一室で、七時三〇分より一〇時三〇分までの三時間、私はアダムスキー問題と宇宙哲学について講演を行ないました。この研究会は実際には約五〇名で構成されているそうですが、当日の出席者は約二〇名でした。幹事は若い女医の浦尾弥須子医学博士で、同先生はむかしからアダムスキーの本を読んでおられて、その内容の素晴らしさに打たれた結果、アダムスキー研究家の私に直接講演を頼んでこられたという次第です。

 

 まず驚いたのは、私が話し始めるやいなや出席者の全先生方がいっせいにノートブックに筆記し始めたことです。過去に無数の講演を行ないましたが、こんな光景は初めてでしたので、「これはウカツな事はしゃべれないぞ」と緊張して極力言葉を選びながら話を進めたのですけれども、慎重になりすぎて話の順序が前後し、学術講演というスタイルとは縁遠いものとなりました。しかし大体に原稿なしでしゃべりまくるタイプの私は、この自由な雰囲気に満喫して思いきり飛翔したという次第です。

 

 講演のあとの質疑応答の時間にフランスの名高いルールドの聖泉に関する質問が出たときにも驚きました。こんな話は西洋医学では無縁とされているからです。ルールドというのは、ここの聖泉の水を飲んだり浴びたりすれば難病が奇跡的に治るといわれて、聖地になっている有名な場所です。むかし私はGAPの団体旅行でルールドを視察して聖女ベルナデットに関する事績を徹底的に調査し、現地で入手可能な限りの資料を仕込んで持ち帰り、その後、学研から「ルールドの奇跡」と題する本を書いて出したほどですが、しかし、長いあいだ無関心になっていたために、ほとんど脳裏に残っていなかったのです。それで少々狼狽気味になったのですが、話し始あると不思議なことに忘れていたルールド関係の固有名詞が次々と勢いよく飛び出て、全く資料なしで思う存分に語ることが出来ました。とにかく私のつたない話を終始熱心に聞いて下さった精神世界の探求に精励されるこの超進歩的な医師先生方に衷心より感謝致す次第です。

 

 ルールドの奇跡的事件は一八五八年二月一一日、貧しい一四歳の少女、ベルナデット・スビルーが村はずれのガーブ川の岸辺の洞窟の所で、絶世の美女の幻と会い、その美女から多くの話を聞かされるという世にも不思議な事件です。相手の姿も声もベルナデットだけに感知できたのであって他人には絶対に確認できません。このコンタクト事件は一五日間続いて、最後にはその場所から水がわき出るようになり、この水を飲めば難病が治るという実例が頻出し始めて、美女の要請どおり、この土地に大聖堂が建立されてから世界的に有名になっています。現在でもここへ巡礼に行く病人のなかには奇跡的な難病の治癒が発生しているそうですが、ただし病人のすべてが治るわけではなくて、奇跡が発生しない人もかなりいるようです。この事件はベルナデットの病的な心霊的体験でないことは確かです。彼女はまさに聖女の名にふさわしい超高潔な人格の持ち主であり、愛の精神の権化であったからです。後年一九〇三年に大生物学者のアレキシス・カレル博士が、ルールドの洞窟前で重症の結核性腹膜炎で臨終状態であった一九歳のマリー・フェランという少女が瞬時にして健康体になった一大奇跡的光景を目撃して「ルールドへの旅」と題する目撃手記を残しています。

 

 ベルナデットが会った幻の美女は周囲の人達から「聖母マリア」にされたのですが、私の推測では、あの事件が発生した当時、上空に他の惑星から来た大母船かスカウトシップがいて、そこから特殊な波動を放射しながらベルナデットだけに美女の立体像を見せたり音声を聞かせたりしたのだとみています。ポルトガルの有名なファティマの大事件も「数万人の人々の上空に出現した太陽のように輝く巨大な円形の光体は別な惑星から来た宇宙船であった」とA氏がスペースピープルから聞いたと言っておられました。ポルトガルもフランスもカトリック王国ですから、国民に宗教的な面を強調してイエスの説いた「愛」の精神を高めることを奨励したのでしょう。ファティマにも行きましたが、まさに私の推理にぴったりの場所でした。私はあらゆる宗教的な奇跡的事件をすべてUFOや異星人に関連づける意図はありませんが、ルールドの一大奇跡もまずUFOに間違いないでしょう。

 

 世の中には不思議な出来事が沢山あります。たとえば、むかしアメリカのメイン州で長距離トラックの運転手をやっていたエドウィン・ロビンソン氏は五三歳のときに交通事故で失明し、聴力もほとんど失ってしまいました。医師は回復の見込みはないと断言したのです。しかし彼が一〇年後のあるとき、ペットのニワトリを捕まえようとして、補聴器をつけて庭のポプラの木の下まで行ったとき、突然その樹木に落雷があり、彼は気を失って倒れました。六二歳の彼の意識が二〇分後に回復したとき、なんと視力と聴力が完全に回復していたのです! 診察したかかりつけの眼科医アルバート・モールトン博士は唖然とするばかりで、奇跡以外の何物でもないと証言しています。

 

 こんな驚異的な事実を偶然だとか何かのハズミだと簡単に片付ける人は、いつか「偶然に」難病になるか事故にあい「偶然に」苦しみながら世を去ることになるでしょう。アインシュタインが言っています。「人間は神秘的な謎を探求してこそ科学の進歩があるのだ」と。あらゆる事象の因果関係を徹底的に追求してこそ、科学といえるのではありませんか。UFOなどは存在しないと一蹴したりする人を見ますと、「神と悪魔が戦っている。その戦場は人間の心なのだ」とドストエフスキーが「カラマゾフの兄弟」の中で言わせている言葉を思い出します。人間の心。これほどに複雑怪奇なものはありません。ただし地球人の心は、です。

 

 しかし「人間」とひとくちに言っても段階があります。あらゆる人間は過去世の思想や生き方が原因となって今生の発達レベルに段差が生じます。すべてが同一のレベルにあるのではないのです。無名の一青年が遥かなる惑星の大文明に思いを馳せて宇宙的な思想を堅持する一方、教育ある裕福な大人が名誉や金品だけを求めながら宇宙的な珍しい現象を嘲笑します。この差は過去世の原因に基づくものです。ただし、上に書いた事を信じるからといって難病の人が樹木の下へ行って落雷を待つことは絶対にしないようにお願い致します。ロビンソン氏になぜ不思議な治癒が生じたのか、理由は皆目不明です。しかし世の中に偶然なものは何もないとアダムスキーも言っていますから、それなりの何かの理由が潜在したのでしょう。「何かの理由がある!」と沈思黙考するだけでも、笑いとばすよりは高次元な態度を示しています。

 

 

 

音楽の効用

 

 病気の治癒の件で最近は音楽による療法が流行の兆しを見せています。これは良い傾向です。私が昨年総入れ歯を作るために半年間、四十数回もかよった地元の鈴木歯科医院ではBGM(背景音楽)が絶えずかすかに流れていましたが、それも昔懐かしい小学唱歌の名曲ばかりが響くものですから、非常に心が安寧な状態になるのでした。いったいにこの歯科医院は非常に優秀な管理がなされており、女性の助手達もきわめて親切で愛情深く、院長先生の抜群の指導力が発揮されていました。ここの治療用椅子に仰向けになるだけでも大いなる安堵感が起こってきます。

 

 その音楽の話ですが、私は子供の頃から音楽狂で、長ずるに及んで各種の楽器を練習し、クラシックギターに最も打ち込んだのですが、四〇歳頃から右手の指が思うように動かなくなってやめてしまいました。それまではギタークラブを組織して入場料をとっては演奏会をあちこちで開催していましたから、かなりのオタクだったとは言えるでしょう。以上は田舎での話です。東京へ移住後はもっぱら鑑賞オンリーとなり、音楽のテープやCDを集めましたが、私はどういうわけか、あらゆるジャンルの音楽を好み、演奏の巧拙がわかるという特殊な人間ですから、人から珍しがられます。私が最高に好むのはオーストリアの大作曲家アントン・ブルックナーの深遠雄大な交響曲群で、特に四番、八番、九番あたりはまさに宇宙哲学そのものですね。それもハンス・クナッパーツブッシュ指揮のミュンヘン交響楽団による演奏でないと聴く気になれません。このレコードはむかし田舎で入手したもので、いまはカセットテープにコピーして聴いています。クナの演奏による八番を聴くだけで私の魂は無限の宇宙を彷径し、創造主の懐に抱かれた姿を夢見るのです。音楽の効用の偉大さをこのときほど痛感することはありません。

 

 昔、大学の集中講義で「西洋音楽史」を教わりましたが、このときの先生は当時有名な音楽評論家であった村田武雄先生でした。それから長年月の経過を経て村田先生に電話で質問したのです。「先生は宇宙的な音楽として、いかなる曲を推薦されますでしょうか」と。すると「宇宙的な音楽とはどういう意味ですか」と聞き返されましたので、「それは、この世のものならぬ、まるで天上の世界から響いてくるような美しい音楽のことです」と言いましたから、「ああ、それならバッハのゴールトベルク変奏曲です」と言下に答えられました。
これは意外な回答でした。二人の妻とともに二〇人の子供をつくったヨハン・セバスティアン・バッハという精力的な大作曲家は、バロック音楽のすべての様式を総合し、「フーガの技法」などは多声的な対位法音楽の極致でしたけれども、彼の死とともに単声の和声法音楽の新時代が到来したのであって、彼はいわば過去の古い様式の音楽家であるからです。しかしそこに純粋な美が見いだされるのでしょう。

 

 音楽はもともと人間の心を慰めて平安をもたらし、悲痛な感情を消失させて生気を復活させる妙薬です。したがって必ずしも西洋音楽にこだわる必要はなく、自分の好みの音楽なら何を愛好してもよいでしょう。日本の俗謡でも演歌でもいっこうにかまいません。沈んでいた心が明るくなればそれでよいのです。下手な説教を聞くよりもはるかに効果があります。金星でも美しい音楽が好まれることは、すでにご存じのとおりです。