Cosmic Consciousness

意識の声 No.87 より

1997年10月号

 

★万人を尊敬する哲学の実践

 

 私は総会で「万人を尊敬せよ」とある方面から私に与えられた忠告の件について話しました。以前はその理論をよく理解していても、実践するのは至難の業でしたけれども、総会が終わってから、なぜかそれを誠意をもって実行しなければいけないという強い義務感が心底から沸き起こってきたのです。こんな事はかつてないことですが、とにかくこれを実行しないことには自分は救われないのだという想念が強烈に起こるものですから、総会終了後は実行しています。その方法は次のとおりです。

 

 道を歩きながら見知らぬ人々に出会い、すれ違います。そのとき、誰を見ても「この人は大宇宙の創造主の子であるから、その内部に宿る宇宙の魂(宇宙の意識)を認めて、それを礼拝するべきだ」と考えて、両手を高々と上げながら合わせて、相手に対して礼拝をするのです。しかし本当に両手を高く上げて礼拝をしながら歩けば、狂人とみなされて病院か警察へ連行されますから、それを実際には行なわず、心の中で両手を上げて拝むようなイメージを描きながら歩くのです。どんなに見知らぬ人でも、外見がどのようであろうとも、これを実行するようにしています。すると、そのうち気づいたのは、私が過去において目、耳、鼻、口の四感(四つの感覚器官)にいかに振り回されて生きてきたかという点です。さらに、この方法を続けていますと、礼拝しなくてはならぬのは人間様ばかりではなく、万物全体だということに気づきました。言いかえれば、この地球上は一大聖地であるということなのです。そして万物が創造主の魂で光り輝いているというイメージを描きながら道を歩きます。しかし凡俗の悲しさで、ときには礼拝哲学を忘れて、肉眼だけにとらわれて対象物を批判している自分に気づいてハッとし、これではいけない、創造主の聖地の中へ飛び込めと自分を叱咤し、再び聖地感を起こします。この礼拝哲学はもう生涯私の心中から脱落することはないでしょう。そのような決意を固めています。ただし、これを会員の皆様方に強制するつもりは毛頭ありません。私だけの哲学であり私だけの実践法です。

 

 

 

★宗教と宇宙哲学の相違

 

 先般の総会の講演で、GAPの宇宙哲学と宗教との相違について質問された方がありました。私は「宗教というのは偶像崇拝を行なうのであるが、アダムスキーの宇宙哲学はそのようなものではなくて、自分の内部に存在する宇宙の意識(または創造主、宇宙の魂とも呼べる)を認識してそれと一体化することである」という意味のことを述べた上、カトリック等の形式主義について説明しているうちにイエスの礫刑後、墓から遺体が何者かによって引き出されて蘇生させられた等々、話が横にそれてしまい、要領を得ない回答になってしまって恐縮しています。どうも私は講演中に脱線するクセがあっていけません。大いに反省しています。

 

 それはともかくとして、一般のクリスチャンは新約聖書の物語をこの世のものならぬ幻想の世界のおとぎ話的にとらえているようです。しかしイエスはスペースピープルとの密接な関連があったのでして、あの新約に出てくる物語はスペースピープルとイエスが演じた壮大なドラマであって、現実の世界の肉体を持つ人達の生きた生活行動そのものです。あれはスペースピープルが仕組んだプロット(計画)だったとも聞いています。幻想の世界の童話ではないのです。このことはイスラエルへ行ってイエス関係の遺跡を見ればよくわかります。ですから現地視察が重要な意義を帯びているわけです。

 

 ただし私は宗教と対立するものではありません。何かの宗教を信ずることによって心の平安が得られ、至福感を起こす人は、それはそれで結構だと思うのです。方法が何であれ、人間は誰しも大安心の境地に至ることを求めているのですから、それが達成できれば、いうことはないでしょう。かく言う私などは月例セミナーなどでエラそうなことを話しますが、実際は心の中は火の車でしたけれども、この頃は万人尊敬哲学を実践するようになって安堵しています。あとは長続きあるのみです。

 

 

 

★人間は無限のカを持つ

 

 先般の総会の講演で私はアメリカの一老人が一念発起して、壮大な大聖堂をたった一人で建設したという話をしました。これを再度お伝えしますと、ラテン系米人と思われるジュスト・ガリェゴという七一歳の老人が、若い頃はカトリックの神父だったそうですが、あるとき思いたって神様の家を一軒作ろうと計画し、全く一人で礎石から鉄筋組み、煉瓦積み、大理石切り等、あらゆることを三五年間独力で遂行して、今は高さ二〇メートルもあるような堂々たる大聖堂が八分方出来ているということで、その写真が出ています。

 

 これはアメリカの「エンクワイアラー」という雑誌の最近号に掲載されている記事でして、問題はその元神父さんの途方もない計画と仕事の遂行です。もともと建築の知識も技術もなく、世界の有名な大聖堂の写真を集あてデザインしたそうで、その信念と実行力には驚嘆のほかありません。しかも地元の行政側はこの建築については何も言わないのだそうで、こうした点がいかにもアメリカらしいおおらかさを示しています。記事の中にはこの所在地が伏せてありますが、これは発表すると大勢の人が見物に来て仕事の邪魔になることと、仕事を援助する人が出てきたらもはや独力の成果になりませんから、そのために土地名は隠してあるのでしょう。日本では考えられない壮挙ですが、何よりも、たった一人で為し遂げようという強烈な意志と実行力が素晴らしいレッスンを与えてくれます。

 

 結局、人間はどんな事でも遂行できる能力を持っていることがこれでわかります。ところが最近の日本で特に若い人が非常に軟弱になり、憂慮すべき状態になっていると多くの識者が指摘しています。たしかにそうでしょう。この頃名高い書物の「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」(マークス寿子著、草思社)にはそのものズバリの実態が活写されていますが、これは著者のマークス寿子氏が長くイギリスで暮らした国際的経験から観察して述べていることですから、大いに参考になります。著者は早大政経と都立大大学院卒で、さらにロンドン大学の研究員という経歴と高度な知性を持つ学者です。

 

 しかし、です。私は悲観的な想念は起こしません。日本民族の一種不思議なカルマの脈絡を熟考してみますのに、世界でも全く特殊な民族である日本人は、真の世界平和を構築する上での最重要な原動力になるだろうとみています。世界でたった一国、原爆の洗礼を受けた日本。終戦時に日本軍が某国に六〇万人も拉致されて捕虜となった上、厳寒の土地で酷使されて六万人が落命するという国際法無視の扱いを受けながら全く抗議をしない日本。平和憲法を戦勝国から与えられてそれを固守している日本。ここには明らかに平和への橋渡しの任務を担う日本民族の特殊性があると思うのです。今後日本民族が立ち上がるときは、世界平和への一大行動を起こすときでしょう。そうなることを心から希求しています。


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