投稿者 ぱんどら 日時 1998 年 4 月 06 日 20:34:52:
回答先: Re: 自由意志 投稿者 ikawa 日時 1998 年 4 月 04 日 20:26:04:
>む〜。かなりシビアな問題ですね。
>相手を傷つける事を喜んでいる人に善意を施しても
>善意を善意として理解できないだろうと思います。
>「愛」の行為は、テレパシーを使い、その他人とって
>必要な行為は何かを知る必要があるように思います。
>それが分かったら、実行あるのみですか。
現実にはそこまで極端なことが事実として起こるのかどうかわかりません。
自分がそんな状態に陥ったら多分意識することをストップしてしまうと
思います。ただ、神話の中にはアガメムノンの例のように自ら我が子を
手にかけるような話も有ります。
意識が極限にいたってしまうのか、それともどこかでそれを食い止める
何らかの法則が有るのか、私自身も、こうした極限状態はあまり考えたくありません。
しかし聖書や勇敢な哲学はこうした課題に立ち向かっているように見えます。
>> 神と等しいルシファーもこのへんで自棄になって反抗し始めたなんて考えることが
>> できるかもしれませんね。神はきっとすごい意地悪かも知れませんよ。
>人間の意地悪な行為でも心、肉体、意識(神)が
>一体となって働いているわけです。
>但し、結果の影響は、心がこうむるのです。
>こうやって、心にとって楽しい結果をもたらすのは、
>何かを知るのです。
>神に対する概念をどのように持とうと自由ですが、
>自身にとって最良な結果がもたらされるようにしたいですね。
>もちろん、それも自由意志にゆだねられているのです。
>ikawa
ホロコーストはご存知かと思います。かの犠牲者に対してケーシーの解説者が
彼らはカルマを支払ったといいました。
苦痛にある人はそれがカルマの結果だと考えるのは、今の苦痛を受け入れるのに
説得力のある回答だと思います。しかし一方でケーシーは無知なるがゆえに
苦痛に陥っているともいってます。
アダムスキーはどう答えているのでしょう。
無知なるがゆえの選択は自由意志の結果として本人の責任になるのでしょうか?