投稿者 ミュー 日時 2004 年 4 月 20 日 02:27:49:
回答先: Re: 日本の社会の中で新しい経済体制は可能か? 投稿者 異邦人 日時 2004 年 4 月 18 日 16:40:50:
異邦人さま、お返事ありがとうございました。
おっしゃる通り宇宙哲学においてはその両方が極端でむしろ中間のバランスが必要ですね。「お金を愛しましょう。」と言った某コンタクティー氏の意図は明白です。お金はそれにより社会に存在する物質的利益すべてが得られるからです。彼はこの言葉により、お金に対する過度の忌避感や潜在的忌避感を否定したわけです。お金を求めるには、やはりそれに対する愛情が必要だと言うわけです。お金が欲しい人は世の中に沢山います。それにはどうしたらよいかという答えとしてこの言葉があったわけです。
結局、彼のいうことは宇宙哲学とは直接には関係がないのです。でも個人が天の要素と地の要素間のバランスを得るためにはお金も必要だということでしょう。かつてチャップリンがその映画の中で、世の中で生きてゆくためには愛情と勇気、それにお金が少し必要だと言いました。これは宇宙哲学的ではないかと思うのです。しかし、本題とは異なるのでこれくらいにしたいと思います。
日本はお金持ちになったと言われますが、果たして将来どこまでそれを維持できるでしょうか。日本の金融機関は巨大になり、世界的に見ても有数の資金量を持っている銀行や金融機関があります。
銀行は資金を会社や個人へ貸し出し、その期間利息を得て商売が成り立っています。保険会社も同様のことをやっています。この問題点は、一般の会社や個人商店などが資金を借り入れなくなったら銀行はおしまいだという事です。結局、金融機関は会社や個人の商店を活動させるためエネルギー源に過ぎないわけです。しかしお金の集まるところには「力」が生じますので、そこが力の焦点の一つになる可能性が常にあるわけです。
>今の日本の経済状態の中で私たち日本人はどこに道と希望を求めるのでしょうか?
確かに今の日本では失業率も高くなっているし、年金制度が崩壊し、年をとっても約束どうりの金額は支給されそうにないのが実情です。また年寄りだけでなく若者達や女性達にとっても十分な収入が約束される社会ではなくなっているようで、本当にこれは憂慮すべき問題だと思います。
この解決方の一つは、日本人が勇気を持って、憲法を実践に移すことが必要でないかと愚考する次第です。
つまり、「すべての国民は健康で文化的な最低限の生活を享受する権利を有する。」という憲法条文を事項に移す方策を施行するのです。その具体的方策のひとつは、ひととおりの生活必需品の必要量を全員に配布できるシステムを構築することであります。
生活必需品というのは、食料、衣類、住宅(部屋)、電気、水道、ガス等でありまして、それがあれば一応の生活ができるという一切のものです。
これは共産主義ではありません。憲法の条文を満たすためですが、それができないのなら憲法を改正するしかないでしょう。このシステムを導入しても、やはり会社間の競争は残るし一般商店の存続や新企業の設立も可能でしょう。これはいわば高度福祉国家の一形態とでもいうべきだと思うのです。つまりピラミッドの土台部分を公平分配制にして安定化させ、全体の安定化も図ろうとするものです。
それにいくらかかるのか、という疑問はありますが、日本の総生産から考慮して、それが不可能であるとは思えないのです。つまり、現在は貨幣を媒介として世の中に流通され配布されている総量が、必要量の何割り増しになっていると思えるからです。デパートや商店、コンビニには食料や物品があふれています。その総量はすでに必要量の何倍かになっているのです。
また、必要量を配布するといっても、それは最低限であり、それ以上を求めるのが人間の常です。また贅沢品もなければなりません。それで、そうしたシステムに移行しても、やはりお金を求める人は常に沢山いるのです。さらに、こうした新システムにより生じた余暇を研究や勉強に使用して、新たな発明や研究開発に貢献することは十分に考えられます。
一般人は年をとると体力が落ちまた病気がちとなり、労働力としての質は低下してきます。そうなるとお金が得られないので、必需品が取得できず最終的には死にいたるというのが実情ではないのでしょうか。彼らには、経験による知識の蓄積があるはずですが、それを活用できる期間が制約を受けているわけです。これは人類の発展ために大きな損失となっていないでしょうか。この新システムはそうした損失をも保護する働きがあるわけです。
>宇宙哲学は新しい経済学の必要性を示しています。
上記のことは一個人的な意見です。しかしこうした見解は、宇宙哲学を持ち出すまでもなく、今まで論じられなかったことが不思議にも思われます。このようにして、インターネットを用いて新しい経済体制を模索することはある程度許されるべきではないかと思います。
ミュー
|> ミュ様へ、お便りありがとうございます。でも、今の日本の経済状態の中で私たち日本人はどこに道と希望を求めるのでしょうか?
|> アダムスキーは個人的には、銀行券に対して一般人とは異なる特殊な感覚を持っていたと思いますが、けしてそのことを他の人々に強要されたことは一度もないと思います。しかし、だからと云って現在の資本主義体制をそのまま肯定していたとも思えないものとどうしても思えてくるのです。なぜなら、貨幣経済は地球の中に存在する経済体制であって、他の惑星には存在しない体制であると述べられているからです。でも、現実は身近な問題として個人が生活してゆくためには、銀行券は必須のものであり銀行券そのものを否定するあり方は、非現実的なあり方と思います。アダムスキー哲学が貨幣を否定する哲学と解釈され誤って実践されるのであれば、現状ではそれは行き過ぎでありミュさんの云われるように中庸に欠けるもの思われます。しかし、『お金を愛しましょう。』が反対に宇宙哲学であればこれもやはり行き過ぎではないでしょうか?なぜなら、私たちは金融機関に普通預金や定期預金によってお金を貯金をする処までの認識しかなく、その自分の貯金がどのように処理されてゆくのか?その流れを知らず、銀行などの金融機関と不動産に絡む不良債権の問題が表に出るまでは、金融機関の持つ本当の実体を知らなかったということが現実ではないでしょうか?私たちは銀行の持つ表の顔しか知らないのです。しかし、現在では銀行の不良債権の問題を通して銀行の裏の顔について国民が気付いています。また日本国内の利害に影響を受けない外国のマスメディアは、日本経済の本当の姿と問題点について指摘をしています。私たちにとって銀行券は生活にとって必要のものであり、それは当たり前の常識のことと思われます。しかし、その常識が近い将来、自国通貨の信用を失うという可能性をひめているのではないかと潜在的に感じている人々も多いのではないでしょうか?資本主義の中で生きている以上、必要なことは肯定しなければならないけれども、反対にこの日本経済では、これまで肯定して信用してきたことがらがすでに崩れ始めてきていると思うのです。そのような現在の日本の経済情勢の中で肝心の宇宙哲学が『お金を愛しましょう。』では、保険会社の意図的宣伝であり、これは解答でも中庸でもなく何かが違うのではないかと感じるのです。それでは宇宙哲学ではどのようにのべられているのでしょうか?
|> 『金星・土星探訪記』のn281の貧困排除の戦いについてのコメントの中に『地球人は他の惑星に従ってこの社会の型を造り上げようとし始めている。・・・貧困が除かれれば多くの病気と犯罪が消滅するからです。・・・これを達成するためには物資の分配法が変えらればなりませんし、平等の法則が貪欲の法則に置き換えられなければなりません。』と述べられています。つまり物資の分配法を変化させることが重要であって、これまではその分配法が資本主義と共産主義によってなされていたけれども、そうではない新しい経済体制を造る『経済学』が必要であると述べているということです。資本主義とは資本であるお金の持つ社会的力によって物資を分配する方法であり、それは、小泉政権が創り出す現在の日本経済のようにこれまでの経済的に平等な日本の社会から富と貧の階級社会を造りだしてゆくことになってゆくと思います。アダムスキーは新しい経済学の姿について言及されていませんが一つの方向性として、宇宙哲学とインターネットの機能が地球的規模で物資の需要と供給、生産と流通と分配に結びつくことによって、そこに物資の分配方法の新しい方向性があると考えることができないでしょうか?つまり経済の中に人間の自律神経系の機能がインターネットを通して社会の流通と分配の中に進化して顕されてくるという道です。しかし、『新しい経済学』は日本の中から生み出されるものでしょうか?宇宙哲学は新しい経済学の必要性を示しています。