投稿者 伊知地充 日時 2004 年 5 月 09 日 19:50:39:
回答先: Re: 因果律と自由意志 投稿者 Tatsuro 日時 2004 年 5 月 09 日 12:44:05:
人間は過去に向かって行動することはできません。人間の意志は
必然的に未来志向型です。資格をとって安定した仕事に就きたい
と思うのも、過去がいまわしく思えるのも、りっぱな筋肉を作る
ためどっさりとプロテインを買い込もうとするのも、そこに自分
の《未来》を見るからにほかなりません。
過去は未来を決定しない。同時に、性格とか、遺伝とか、環境・
境遇も未来を決定するわけではない。それらは《事柄化》してい
ます。それらがが未来を左右する要素ということはできますが、
決定するのだとするのは、無謀な論理でしょう。
私は人間の自由意志を否定しますが、決定論者ではありません。
未来が決定されているとか、宿命とか、運命というものはどうで
もよいのです。未来への意志が《自在なものか否か》が問題なの
です。これが、自由意志という問題の根幹です。
創造の持続とか、未来への情熱とかいう言葉は文学的で美しいで
す。しかし真摯に《自由意志》を考察しようとするとこれらの言
葉は容易に問題をはぐらかしてしまうのです。心理学者がよく例
にする一卵性双生児の話がある。同じ遺伝子、同じ環境、同じ教
育を受けながら、片方は泥棒、もう片方は立派な紳士に成長した
というものです。彼らの人生を変えていったのはほかならぬ自身
の向上心であったり情熱であったりするわけですが、何故それが
《自由なる意志》へと結論されてしまうのか、甚だ疑問である。
堪えがたい障碍があること、確率的にどうしても生じてしまう困
難を乗り越える《意志自体の自由》を論じているのに、いきなり
自由意志に帰着させるのは、問題の意味が解ってないからでしょ
う。
《何を思うかは人の自由》というのと、《思うことの内容を自在
に決定できるか》という問題は根本的に異なっています。両者を
混同して論議するといつまでも話はかみ合いません。
少なくともアリストテレスの時代から人類は自由意志の問題を追
究し続けてきました。実に多くの哲学者や学者がこの問題に取り
組んできていますが、根幹となるのは、人間は《思うことの内容
を事前に自在に決定できるか》ということなのです。
「いろいろ悩んだけど、よし、決めた」とする決意は、そのように
決意する以前に自らその内容を決定したのですか、ということが
問題になるのです。「シナリオが無いから自由なんじゃないか」と
いうのは反駁になりません。それではまるで偶発的なもので、自
由を否定することになってしまう。《自由な》という限りおいて、
不慮の事故のように扱っては自滅です。自己原因的な意志とは自
ら書いたシナリオ通り発生する意志(必然的意志)でなければな
らない。さらに心の自由まで言及するなら、心自体(実際は心的
現象の連鎖)が、自身の自らによるシナリオ・プログラムを持っ
ているのでなければならない。
自身の自らによるシナリオ・プログラムを持っている心なんて想
像できようか《魂》?《霊魂》?《無意識の意識》?何でも良いので
すが、われわれはそれを実感できません。また、そうしたものを
実体として想定するとわれわれ自身の起源は宇宙の始原まで遡ら
ねばならぬという困難に陥ってしまいます。
大方の自由意志論者は、その論拠として例の《不確定性原理》を
持ち出しますが、決定されていないイコール意志の自由ではない
のです。一条件ではありますが、結論付ける十分条件ではありま
せん。自由意志論者は、《意志が自らの意志を根拠としている》
ということを論理的に説明しなければならないのです。《意志が
自らの意志を根拠としている》という表現は解り難いかも知れま
せんが、これ以上簡潔で適切な言葉は今のところ頭に浮かばない
ので勘弁して下さい。
どうしても抽象的な文章になりますが、本来自由意志の議論とい
うのはこうしたものです。力不足で、ごめんなさい。
最後に。
単に《人間は自身の意志を持つ》というだけにとどめておけば問
題は無かったと思います。ある時人間は《自由意志》という訳の
解らん概念を発明してしまいました。周りの意志とは関係なく、
影響されない自身の意志という意味にとどまらず、そこに《倫理
的意味》をも含めて《自由意志》としてしまったのです。つまり、
無条件の全的責任が自由意志という言葉には含まれています。
《自由》という言葉は、ここでは自己原因的(自己に因る)とい
うことであり、自らの意志はすべて自身に原因するというものな
のです。この自由はだいたい在るとか、殆ど無いといったもので
はなく、まさに単純に《在るか、否か》です。