投稿者 異邦人 日時 2002 年 11 月 25 日 23:13:19:
回答先: Re: アダムスキーを通しての倶舎論研究の必要性について 投稿者 住田 一成 日時 2002 年 11 月 24 日 23:04:42:
|> 新たな闘争は更なる闘争を生むだけです。
アダムスキーを通して倶舎論を観てゆくということは、人間の生命の姿や寿命と言われるは、過去の経典の世界に示された事柄は、けして嘘の事柄ではなく、真実であるということです。このことは、仏教の経典に限らず、聖書の中にも人間の寿命が長く書かれているのですが、現代人は、そのような宗教経典の記述をけして信じようとしないと思われます。しかし、アダムスキーが母船の中で出会った天界人はみな若さを保った人々であったのです。このようなことから、アダムスキーの伝えてくれた事実によって、過去の宗教経典の世界が嘘の世界を述べていたということではなく、むしろ過去の世界において人間は天界人や宇宙人と交流をしており、その生命の姿をそのまま残したということになると思います。そのようなことで、天界や諸天の姿を私たち同じ人間の姿をした天界人として捉え直すことによって、過去の宗教経典の世界とは、天界人と地球人の交流や関係を示したものが宗教経典として残されてきたということを通して諸天の概念を変化させてゆくということです。そして仏教を信仰する宗教団体がアダムスキーを学ぶ必要性があるということは、このような事実として天界人の寿命の姿が体験談として述べられているからです。この研究の必要性のテーマはこの僅かな入り口一つの事柄にすぎませんが、このたった一つの事柄であっても仏教の団体に対話をして伝えてゆくことは大変な事柄であると思います。しかしそのことは、アダムスキーが始めに円盤搭乗記を述べた時でさえ、ペテン師とされてしまったり、当時のキリスト教会の人々でさえも、すべての人々が受け入れをしたということではないと思います。受け入れをする人々もいれば、反対する人々もいることでしょうし、宗教の世界とは、その人々の生き方の問題が深く関わりを持ってくるので、単なる知識や世界観の問題ではないと思われます。しかし、唯一つ言えることは、新しい闘争をするという発想ではないということです。闘争という発想そのものが、すでに意識の中に闘争という姿を始めに造り上げています。アダムスキーはけしてこのような「想念の発想」は宇宙哲学の中で示していないと思われますし、教えてもいないことと思われます。これでは、どんな宗教団体の人々であっても、対話の前に闘争という想念が先行してしまいます。何故に新たな闘争という結論が導き出されてくるのでしょうか。アダムスキー哲学を学んでいる人がどうしてそのような結論を導き出すものでしょうか。もし、このような結論が宇宙哲学を学んでいる人の宗教団体に対する結論であるのであれば、あるいは、宇宙意識やテレパシーを学んでいる人の言葉の想念と結論であるのであれば、宇宙哲学や宇宙意識から来る結論や解答がこのようなことなのでしょうか。もっともっと別の発想と智恵を見いだすことができないものでしょうか。