投稿者 住田 一成 日時 2002 年 11 月 26 日 22:52:47:
回答先: Re: アダムスキーを通しての倶舎論研究の必要性について 投稿者 異邦人 日時 2002 年 11 月 25 日 23:13:19:
すでにアダムスキーの本はほぼ完全な形で出版されていますね。
その思想に意味があると思う人は、それを参考にすればよいわけですね。
なぜ仏教理論と結びつけなければならないのですか?
仏教に関心がある人はそれを読んでいろいろコメントはできるでしょうが、それはその人の趣味の問題で、あくまでもそのままのアダムスキーの本を教えてあげればいいでしょう。仏教的な味付けをする必要はまったくありません。
その人その人のとり方があるのはいいとおもいますが、元の思想を曲げて伝える必要はありません。本当に受け入れる人であればそのまま読んでくれますよ。あえて仏教理論と混ぜるのは改ざんと変わりません。アダムスキーは古聖の教えの真髄を言っているのですから、本当に求める人の心には響くでしょう。
ところでなぜあなたの倶舎論の主張の本題に入らないのですか?
いまあなたがかいていることは単なる類似性をいっているだけですよ。類似性をいうだけでは意味はないです。
倶舎論にたいする意見があるのではないですか。
>新しい闘争をするという発想ではないということです
そういう意味での闘争をするということではないです。これは説明不能なところに
なりますが、私にとってはこの倶舎論の議論は「闘争」そのものです。きわめて平面的な思考であるために「闘争」にならざるをえないということです。片一方に動けば正反対の動きを生むためです。ここの感覚は説明不能です。とりあえずそういう感覚の人もいるということで認めてください。
>もし、このような結論が宇宙哲学を学んでいる人の宗教団体に対する結論であるのであれば、あるいは、宇宙意識やテレパシーを学んでいる人の言葉の想念と結論であるのであれば、宇宙哲学や宇宙意識から来る結論や解答がこのようなことなのでしょうか。もっともっと別の発想と智恵を見いだすことができないものでしょうか。
結論ではありませんが私の意見です。それ以上でもそれ以下でもありません。
「闘争」の意味するところがかなり違うのです。
その意味はたんなる「いいあらそい」や「暴力」だけではないのです。
私の感覚では「あなたは闘争している」と感じるのです。なぜアダムスキーの思想そのものでいかないのか不思議でわからない感覚です。とりあえずあなたが言う意味の闘争ではないのですが、それは私には闘争に見えます。思考の闘争のようなものです。
感覚わかりますか?
ちなみにわれわれのうち誰一人として「理解」という言葉の意味が了解できる人がいると思いますか。私は自分も含めてかなり怪しいものだと思っています。そういった感覚から言葉が出ているのでちょっと言葉の意味が広くとっているところがあるということです。あえて説明ははしおってますのでよろしく。