投稿者 ドライもん 日時 2000 年 9 月 02 日 16:50:50:
回答先: Re: 意識の大会(ちょっと古いですが) 投稿者 松本 日時 2000 年 8 月 18 日 15:44:29:
意識について考えたことをまとめてみました。
意識という言葉は、日常的によく使われています。
「意識がある」とか「意識がない」とか「意識する」とか、
また、「意識ここにあらず」とか、、
たとえば、テレビで何かの番組を見ていたとしましょう。
番組の内容に関心がなく、何か別のことを考えていれば、
何が放送されていたのかまったく覚えていない、なんてことに
なってしまうかもしれません。
いわゆる「意識ここにあらず」というのはこのようなときに
使いますね。
この場合「意識」という言葉は「関心がある」「関心がない」などと同じような
意味で使われています。
「生命の科学」の中でアダムスキーは
「それを言葉であらわすのに最上の表現は、“警戒(または注意)の状態”」
と述べています。
熟睡しているとき、部屋に音楽が流れていてもまったく知覚できません。
耳は健康できちんと鼓膜が振動しているにも関わらずです。
睡眠中も部屋の中の時計は刻々と時を刻みますが、そんな時の流れさえも
知覚できません。
「意識がない」とか使われるのは、こんなときでしょうか。
「意識」というのは学問的には難しいけれども、私たちはそれをある程度理解
していて、日常的にも使ってます。
私たちが「意識」という言葉をどのように理解して、どのように使っているのか
考えてみるのも、学問的な一つの出発点になりますよね。
では「心」と「意識」という組み合わせはどうでしょうか。
普通、この2つをあまり区別しないで使うことが多いのですが、
アダムスキーは両者を区別して説明しています。
どういうことでしょうか?
どうもこの辺は英語と日本語のニュアンスの違いがあるのかもしれません。
休日を利用して山にハイキングに行ったとしましょう。
豊かな山並み、草木の匂い、風が吹きぬける音、すがすがしい気持ち
などなど、、、
意識の中にはっきりと刻み付けられます。
さて、記念撮影です。
美しい自然の背景をバックにして、普段よりも少しだけ明るい表情で
にっこり笑います。
このようにして、自分の歴史を刻んだアルバムが完成してゆきます。
一枚の写真には、その時々いろいろな表情をした自分の姿が写っています。
記憶が鮮明な写真もあれば、いつ撮ったのか分からない写真もあります。
写真は人の外見(表情)は写すけれども人の内面(気持ち)は写さない。
思い出せない写真については、表情からその時の気持ちを推察するしか
ありません。
外を歩いているとき時々人の集団を見掛けることがあります。
なんだろう!
と思って、年齢や性別、服装などをもとに推測してみますが、やはり推測
に過ぎません。
しかし、もしその人たちの気持ちを知れば、集まってきた理由もわかるし、
これから始まる出来事も予測できそうですね。
気持ちを知れば知るほどいろいろなことが分かってしまいますよね。
見た目で判断するか、それとも内面的な目に見えな部分に注意を向けるか。
「心」と「意識」というのは、この2つの関係を述べているように思います。
以上は人間を考えました。
では、顕微鏡を使って細胞の構造や働きを見た場合はどうでしょうか?
そうそう、物質と意識との関係ですね。
音について考えてみます。
音が発生し、空気中を波として伝わり、やがて鼓膜に到着します。
鼓膜は振動しますが、どのようにしてその振動が実際に聞こえる
音色(感覚的なもの)に変換されるのか?
うむ、難しいですね。
大体、物理学には感覚的(意識的)なものを表わす物差しがない。
頭の中では音色が鳴り響いているのに、これを表現することができない。
ちょっと待てよ
受け取った物は、送られてきたものと同じ物である。
という考え方もある。
これなら変換する必要はない。
あれっ
さて、
意識とは何でしょう?
学問的にはどのように扱えばよいのでしょう?