投稿者 純 日時 2003 年 8 月 01 日 10:28:17:
ゼロの扱いの差がある10進法と9進法の違いは、私にとっては大きなものです。科学というよりも哲学的な表現で恐縮ですが、
ゼロつまり無=無限=絶対=創造主というものは、それに近づこうとしたり、なろうとすると、逆にそれから離れてしまうものではないかと思うのです。方向性という相対的なアプローチは分離を意味します。分離ではなく、一体化によってゼロは表現されるべきものだと思うのです。
一人の人間がオーソンのように、男性要素と女性要素の完全なバランスのとれた精神的存在になれても、性別は男性か女性のどちらかであって、母船内の中性的な神の肖像画のようにはならないように、男女という相対的なものが単独で絶対(ゼロ)になることはないと思います。
1プラス1は座標軸では2ですが、自然界では3になるとアダムスキー氏は伝えています。3プラス3は7だと。+1と−1は、お互いを打ち消しあってゼロになるのではなく、一体化してゼロを表現するのだと思います。それは座標軸のゼロとは少し違うような気がします。
ゼロと同様に1も自然界には存在しないと思います。
この自然界は全て陰陽、相対的なものですので、どんなに細かく分解しても、完全に陰のみ、陽のみという1個は確認できないと思います。
あくまでも1を表現しているだけで、1なる男性(女性)の中にも父性原理と母性原理があります。
イエスは、「私はあなたがたの体をつくる石ころである」というようなことを言いました。イエスが神(ゼロ)の一人子(1)の象徴とすると、1が相対的存在をつくる最小単位といえます。ですから、1は絶対と相対の橋渡しをする役目をしていると思うのです。
ゼロと同時に、1についても、現代科学、数学とは違う見方があるような気がするのです。