投稿者 Vosne 日時 2004 年 9 月 25 日 22:16:37:
回答先: コラムの統合 投稿者 Tatsuro 日時 2004 年 9 月 19 日 12:03:21:
|> そうですね。中学、高校で、かなり機械的なことばかり
|> で、テストができるかできないかというような勉強ばか
|> りさせられて、ゲームみたいで、それはそれでいいんで
|> すが、その先はどんなことを習うのかとか、何故今これ
|> を習う必要があるのかとか、ちょっと先まで進んでおく
|> と今の状況が認識しやすいことがよくあると思います。
|> 成長してから振り返って、何でこれがわからなかったの
|> だろうということがあると思います。ちょっとした概念
|> の理解だったり、言葉のてにをはの問題だったりするん
|> です。
∇表現の違いで、物事はずいぶん異なって認識され
たり、理解されたりすることがあるのかもしれませ
んね。
もし、昔から人が音を聞くことができず音楽を
楽譜だけで表現していたなら、音楽は一般社会に
広がることもなく、一部の音楽の関係者たちの間
にしか普及しなかったかもしれません。
逆に昔から数学をイメージとして表現できていれば、
一般の人々に別の意味で普及したかもしれません。
表現の手段がかわれば同じものでも違って感じる
ことになり、いままでとまったく違う世界が広がっ
ていたことでしょう。
最近になって、やっとコンピュータ・グラフィクス
を用いて数学をヴィジュアルに表現できるように
なりつつあります。
「ヴィジュアル複素解析,T.ニーダム,培風館」
[ある寓話]より
・次のような社会を想像してみよう。
その社会では市民たちは楽譜を読んだり,また
ときには書いたりするようにすすめられています。
しかもある年ごろまでは,みんな義務づけられて
います。
なんとすばらしいことでしょう。
それなのに,この社会にはとてもおかしなきまり
があります。
音楽を聴いたり,演奏してはいけないのです。
このきまりがいったい全体どうして始まったか,
ほとんどだれも覚えていません。
この社会では,音楽がとても大切だということは
誰もが認めていますが,なぜか音楽は広く楽しまれ
ていません。
確かに,教授たちはBachやWagnerなどの傑作に
ついてそれは熱狂的に研究し,そうして見つけた
美しさの意味を学生たちに伝えることに懸命です。
ところが,”それがいったい何になるのですか?”
などとぶしつけな質問をされると,教授たちはただ
戸惑うばかりで,口もきけないありさまなのです。
・この寓話においては,音楽を志すようになる
かもしれない学生が,”音を感性的に知覚すること
(sonic intuition)”によって音楽を経験し,
直接的に理解することを禁止するきまりは不当で
かつ理不尽である。
しかし,数学者の社会において,まさにこのような
きまりが存在している。
そちろん不文律であるが,そのきまりは,数学は
視覚化されてはならないといっているのである。