投稿者 異邦人 日時 2002 年 11 月 19 日 00:12:13:
回答先: Re: アダムスキーを通しての倶舎論研究の必要性について 投稿者 住田 一成 日時 2002 年 11 月 17 日 23:57:02:
|> >仏教の基本的世界観である倶舎論の本質に対しての説明もできるということを意味すると思われます。
|> 必ずしもそういえるとは思いません。すでに**論というのは本質を離れたもの、虚構になったものであり、途方もない概念になっているもので、そんなものが説明できるという考え方は成り立たないのではないですか。
|> そういった途方もない遺物からははなれたところでなら話にもなるでしょうが虚構の中での概念の遊びをするつもりはありません。
|> 仏教であると主張する以上、ゴーダマが教えていない限り、仏説とはいえないでしょうね。ほかの人の概念はそのひとのものであり、責任者はその人ですから、開発した人に聞いたほうがよくないでしょうか。
過去に残された宗教経典に対して、その残されたものが、その経典の本質とはいったい何であるのかということを深く観るということと、宇宙や自然の本質を深く観るということは同じ自然や文化に対しての人としての探究の姿勢のあり方であると思われるのです。確かに言葉で残されたものが必ずしも正しい伝承を示しているとは言えない側面があると思われますし、それを書き残した人でなければ解らない側面があると思われますが、現実には、現代社会に流されて残ってきている過去の経典や経論や古典文学と言われるものは、必ずしも書いた人でなければ理解できないものではなく、時代を超えて人々の中で共感できるものがあるからこそ、今日においても宗教経典は、歴史時間の中で消滅することなく、文字の姿として残されてきていると思われます。私たちの文章は二千年間、人々の意識に支えられて社会の中に残ってゆくということはないと思われますが、宗教経典は二千年も三千年も歴史時間の中で消滅することなく、現代社会まで流されてきているのです。なぜそのような長い時間の間に残されてきたのか、昔の人々は、このような残されて流されてきた教えに対しての畏敬の念があったと思います。そしてその言葉の奥に隠された真意を理解する姿勢を持っていたことと思われます。しかし、現代の私たちは科学的世界観によってそれらの世界観がまったく無意味な世界観と解釈をしてしまう傾向にあります。それは現代人がそのような経典を書き残した時代の人々よりも進歩していると考えているという基本から生まれてきていると思われますが、必ずしも過去の時代の人々が進歩していなかったということは言えないものであり、何故に過去の宗教経典が何千年も歴史時間の中で消滅することなく残ってきたのか、その理由を考えることは重要なことと思われます。そしてその言葉や文字で示された背後にある奥深い意味を正しく観るということも時間の中で観ると言う宇宙的意識の一つの顕れと言えないことでしょうか。