投稿者 住田一成 日時 2004 年 4 月 07 日 21:41:44:
回答先: Re: 言葉、名称、因なる世界への糸口として 投稿者 異邦人 日時 2004 年 4 月 06 日 23:05:18:
「釈尊の教えが変質してできたもの、または釈尊の名前をかたったもの」のなかに何も求めることはできません。
ですがさまざまな文献は残されているのでとても参考にはなります。ですからそこにはなんの問題もありません。意図的に改ざんされたものからでも読み取ることはできるものですが理解力が必要です。
腐ったものはそのまま食べることはできませんが、肥料にすることで生かすことができます。
|> |> 基本的なことの確認ですが、「仏教」は釈尊の教えではなりません。釈尊の教えが変質してできたもの、または釈尊の名前をかたったものです。
|> |> 同じことですが道教についての真実も今となっては知りえません。
|> |> ですがいまアダムスキーの書いたことは印刷技術の発達により知ることができます。
|> 恐らく、このような発想によって考えてゆくのであれば、私たちは過去の宗教文化の言葉や文字の世界より何も学ぶことができなくなることでしょう。そして過去の文化や芸術に対しての謙虚な姿勢を失ってゆくことになると思います。また現代の印刷技術によって、アダムスキーの言葉を文字として理解し記憶することはできても、その実体が必ずしも理解できるものとは言えないとも思います。アダムスキーの文献を読んで実践してゆくということが重要になってきます。大切なことは文字として残されているものの中から真実をくみ取ってゆく能力と姿勢が必要に思えます。それは過去に残されたものであっても、その文字の背後に隠された意味と実体を理解することが必要であり『論語よみの論語知らず。』と言う諺があるように、大切なことはその残された言葉の世界の中でどれだけ個人の認識能力によって、その言葉や文字の真意を理解するのかということです。ですからその認識能力の判断によって個人個人の見解があってもよいと思われます。しかし言葉や文字と言われるものは、実体の影の姿であって、宇宙哲学で言えば、人間が仮に付けた『名称』にすぎないのです。それが書写によって残されたものであっても、印刷技術によって残されたものであっても、日本語であっても、英語であっても、それは『名称』にすぎないのです。それでは、テレパシーとは、その言葉が印刷技術によるものであるとか、伝承によるものであるとかいった言葉や名称によって判断するものでしょうか?むしろその『名称』の奥に秘める波動や振動によって捉えてゆく必要性があるのではではないでしょうか?宇宙哲学のn27には『各物体の記憶を保とうとして、それらの振動に名称を名付けたのである。』と記載されています。即ち、言葉や名称の持つ固有の振動数によって事物の真意を判断してゆく方法があると思われます。そのような意味ではアダムスキーの文献には、英知の振動がその言葉の表現の中にあると思います。それは、言葉や名称で理解するものではなく、その言葉の背後にある振動数を捉える感覚的なものです。そしてその波動の世界は、想念の世界と言えるかもしれません。アダムスキーの宇宙哲学の中には、この言葉や名称、そして因なる世界のことが説かれ、その哲学の中にこの問題の解答が隠されていると思われます。私たちはこの哲学の中で解答を見いだす言葉の振動数を捉えてゆく感覚的訓練が必要なのかもしれません。