投稿者 異邦人 日時 2004 年 4 月 08 日 00:05:54:
回答先: Re: 言葉、名称、因なる世界への糸口として 投稿者 住田一成 日時 2004 年 4 月 07 日 21:41:44:
| アダムスキーの高弟であるアリス・ポマロイ女史の言葉の中には宇宙哲学について具体的で簡単な示唆が示されています。『UFO・人間・宇宙』のn386には『私は老子に関する書物を持っているんです。それには、老子は真実の偉人であったのか、それとも古代の各種の哲学の寄せ集めのか、と言う論考があります。』この前半の文章では一般的に学術的文献学的に老子に対しての学問的論考があるということで、この論考の中には、老子とは、単なる哲学の寄せ集めにすぎないとか、真実に存在していた人ではなく伝説の人であるとか、確実で確定できることは何もなく、言えず、反対に様々な論考があるということを述べていますが、そのような論考とは別にポマロイ女史の視点は次の文章の中に彼女の感情の力点があります。『だけど私がその書物を取り出すときは同じ運命のフィーリングを持つのよ。』と述べられていて、様々な論考では老子という人は、不確実な存在であり学問的に確定できないかもしれないが、彼女がアダムスキーと出会ってそこから受けてきた振動と同じ振動がその老子の書物からアリス・ポマロイ女史は深くその振動を感受することができるということを述べており、その個人的な体験を通して、『つまり、アダムスキーは老子であったのか、またはその教えを伝えた人々の一人であったかということです。』と述べているのです。この僅かな言葉の表現から言えることは、ポマロイ女史が、学問的学術的な文献学的判断でアダムスキーが老子であると感じる自分の感覚がおかしいと判断しているということではなくて、自分がこれまでアダムスキーから受けた振動感覚と比較して、同じ振動感覚がその老子の書物の中から感じられるということで述べてその振動感覚の比較によってアダムスキーは老子であるということを述べているのです。この振動感覚は、文献学的学問的な判断ではなく、女史個人の感覚に基づくテレパシー的判断ですが実はこのような学問的文献学的なものではなく、反対に学問的には理解できない不可思議な個人のフィーリングの感覚の中にこそ、本当はその人個人にとっては、つまりポマロイ女史にとっては、アダムスキーと自分の過去の記憶の関係を遡って蘇らせる糸口が老子の書物から来る振動感覚の中に隠されているということを意味しており、もし彼女が世間的な学問的文献学的判断で自分が感じるフィーリングを否定してしまったとしたら、その振動感覚を糸口に自分のより深い処にある過去の記憶を感じることができなくなり、アダムスキーと出会った意義さえも失ってしまうかもしれません。宇宙哲学とは、不可思議感覚を否定するのではなく、その不可思議感覚を感じ観じて受け入れてゆくことであり、その不可思議感覚の流れの中に自分の過去の真実の記憶が隠されているということなのかもしれません。このことは『UFOの真相』n205のポマロイ女史のタイプライターの逸話の中にも同様なことが述べられています。女史は、あり得ない不可思議な感覚を日頃の常識的判断で否定しましたが、アダムスキーは、『いや、過去にもずっーとタイプライターがあって、私たちはいつもこうやって仕事をしてきたんだよ、これを知っておきなさい。』と述べています。