投稿者 異邦人 日時 2002 年 11 月 17 日 17:12:03:
回答先: Re: アダムスキーを通しての倶舎論研究の必要性について 投稿者 住田 一成 日時 2002 年 11 月 16 日 17:49:15:
|> このチベット行きの件についてはもし意味があれば、アダムスキーの思想の中にすでに果実として実っているわけです。必要なエッセンスをすでに教えていたのですから。
|> 情報としては好奇心をくすぐりますが、すぎたことであり、むしろそのことを強調することはアダムスキーの真意を取り損ねることになるのではないかと思います。以下に生きるかという指針はすでに与えられていて、それを生かすことだけが必要で、哲学・思想の比較研究に終始することは避けたいところです。
恐らく、それはけして哲学・思想の比較研究を概念的に行うということではなく、アダムスキー哲学を学んでいる人は、仏教の基本的世界観である倶舎論の本質に対しての説明もできるということを意味すると思われます。現代の日本においても、中国においても、インドにおいても、そしてチベットにおいても、倶舎論の持つ世界の意味について現代的に説明できる人はいないことと思われます。それはたとえ大学の研究者のように言葉や概念で解釈できたとしても、その実体が何を意味するのか、わからないからです。アダムスキーの哲学や宇宙観の中には、恐らく倶舎論の重要な要点がちりばめられていると思われます。それゆえに、アダムスキー哲学を知る人々は、同時に倶舎論の意味が宇宙意識によって反対に理解できるのではないかと思われるのです。それはけして、言葉の概念的な比較思想の問題ではなく、倶舎論と言う経典をその人の宇宙意識で読むということを意味するのかもしれません。意識によって、その経典の中に説かれている言葉の本質を観るという姿勢は、アダムスキーが新約聖書の言葉の中にイエスの言葉の真相を述べるということと同じ意味を持つものと考えられます。新約聖書の言葉や概念にとらわれている言葉で比較しょうとするこれまでのキリスト教会の人々は、アダムスキーの解釈に対して異議を唱える人もいるものと思われます。しかし、そこに説かれている経典をその表現されている言葉の本質を捉え、意識的に読むことのできる人であれば、言葉や概念にとらわれないで、倶舎論を現代に生かして説明することができるのではないでしょうか。アダムスキー哲学を生かすことのできる人であれば、倶舎論を同時に現代に生かすことができると思われるのです。そしてそこに区別はないはずです。唯、それは比較思想として研究するということと意味は異なっていると思われます。なぜなら、本質的な事柄は、文献研究ではわからないことであると思うからです。